オザワークスです。
先日職場でヤバいことがあって、それで改めて貧乏は危険だと思ったので記事にします。
もくじ
職場で蛍光管が切れた。2日後……
ぼくの職場は運送業で、年中無休、24時間稼働している職場です。給料は言うまでもなく、安い。
ある土曜日の朝、夜勤のぼくが仕事を終えてさあ帰ろうかというとき、作業場の蛍光管が1本切れてその場が薄暗くなっているのに気が付きました。
さっきまで点いていたので、ああ切れたんだ~、でも自分も疲れているし面倒だから見なかったことにして帰ろう、誰か換えるでしょ? とそのまま帰りました。
翌日曜日、ぼくは年休を取って休み。
で、月曜日出勤して、ぼくはその光景に唖然としました。
土曜日の朝に切れた作業場の蛍光管がそのままになっており、辺りは薄暗いままだったのです。
さらに驚いたのが、その薄暗い中で同僚たちがいつも通りのそのそ作業していたことです。
かなり細かい文字を読むような作業なので、作業場が暗いとできないことはないけれど、かなりやりづらいし単純に疲れる。ぼくは絶対に嫌です。
しかし彼らは、貧乏な彼らは、薄暗い作業場に何の文句も言わずに黙々と仕事に打ち込んでいました。
結論、無能に任せておくより自分で交換するのが一番早い
ぼくはパート社員の同僚に「蛍光灯換えてって会社に言ったの?」と聞きました。
同僚「言った」
ぼく「いつ?」
同僚「土曜日」
脱力。土曜日に言ったことが月曜になってもやってもらえない。悲しいことですが、ぼくの会社ではよくあることです。
ぼくはその場にいたパート社員のリーダーを捕まえて上を指さし「切れてるんだけど?」。
リーダー「ああ、うん。社員にまた言っとくわ」
そうじゃねえだろう!
働かない社員に言っても2日経ってもまったく動かないんだから、そうじゃねえだろうが。
お前は何のためのリーダーだ?
30代半ばのこのリーダー、前から思っていたがやはり無能で貧乏だった。
すべてを諦めたぼくは、仕方なく社員どもがたむろしている事務所の蛍光管を実力でぶっこ抜こうと事務所に行きましたが、残念ながら蛍光管の長さが違う。
妥協して事務所の前の通路、そこの蛍光管を1本取って、自分で作業場に付け替えました。
はあ、これで明るくなった。
やっとまともな作業ができるようになりました。
何もしない貧乏人たちに計り知れない闇を見た
以上が出来事です。
職場にいるリーダーも含めたパートとアルバイトは、誰一人として蛍光管を交換してもらえないと作業に支障をきたす、と強い態度を会社に示すことができません。
蛍光管すら換えさせることができないのです。
土曜の朝に蛍光管が切れて、土曜日の日中作業、土曜日の深夜作業、日曜日の日中作業、この薄暗い状況に誰も何も疑問を持たなかったのか?
疑問を持ったとしても誰も何も言えなかったのか?
コイツらは何だ? 虫けらか?
ぼくは、この同僚たちの行動、態度、習性に計り知れない貧乏の闇を見た気がします。
貧乏は脳の病気説
貧乏は一種の病気だとぼくは思っています。
彼らには意思というものがありません。何も疑問に思わず、昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日が続いていくと考えています。想像力と時間と人生の概念の欠如。
彼らは他律的です。偉い人が発した命令、誰かが決めたルール。常に他人から干渉を受け、自分の利益ではなく他人の利益のために無自覚に行動します。頭の中で会社の利益と自分の利益を分けて考えることができない。
また、彼らは変化を嫌います。
自分がこれまでこれこれこういうルートで生きてきて、その結果今貧乏であるのに、その生き方を一切変えません。
そもそもそういった合理的、自分を客観視する視点が彼らにはありません。問題を発見自覚できないが故に、問題の解消という発想が育たない。
まとめると、貧乏はある種の脳の病気ということになります。
蛍光管が切れて2日間。薄暗い作業場でいつも通り作業を進める彼らに、ぼくはおぞましいものを感じました。
コイツら病気や! ここは病棟だ!
貧乏を憎むくらいでないと、この怖い病気からは逃れられない
ぼくは貧乏が怖いです。
あんなんになりたくないです。
きちんと自分の人格を持ったまま生きていきたいです。
貧乏になったら終わり。
それが絶対嫌だから、ぼくは米国株に投資します。
金融の力を賢く使えば、何の才能もないぼくでもお金持ちになれると知っているから。
繰り返します。貧乏は終わりです。
それが嫌だったら、必死にもがいて這い上がるしかない。
間違っても貧乏とシェイクハンドしてはならない。
貧乏を嫌え。
貧乏を憎め。
それくらいじゃないとこの沼からは出られないよ。
オザワークスでした。
コメントを残す