オザワークスです。
ブログを書いていると気が付くのですが、ブロガーは読み手の読みたい文章しか書けません。
その結果、読み手の読みたい情報だけが世の中に出回るわけですが、そうなると「異論」や「逆説」が仕事をしなくなります。
「米国株」と検索すれば米国株のメリット情報ばかりが出てくるこのご時世です。
投資はいつでもリスクとリターンが背中合わせです。旨い話ばかりではないので、投資のことを調べる際にはポジティブな情報に取り込まれないよう、ご注意願います。
乗せられてはいけません。
書き手は常日頃から、あなたが読みたいもの、言ってほしい言葉を先回りして書いていく生き物ですから。
もくじ
ブログの正確性よりもっと怖いこと
何か投資のことを知ろうとしたり調べたりするとき、投資のブログを参考にする投資家さんは多いと思います。
ぼくもそうです。自分で投資ブログを書きながら、同時に他人の投資ブログを読んだりします。
それはいいのですが、注意も必要だなとぼくは思います。
いや、所詮個人の書いてるブログだし、内容が不正確だったり情報が古かったりするから気を付けましょう。
というだけではないんです。もちろん、そういう意味でも個人ブログは所詮ブログですけど。
ただ、それよりももっと深いところで気を付けないと危ないなあ、と一人のブログの書き手としてそう思うので、今こんな記事を書いています。
「いいこと」を書きたいのが人の常
日々ブログを書いていると思うのですが、ブログの書き手というのは、基本的には「いいこと」を書いていたいと思っています。
「いいこと」というのは、前向きでポジティブな内容という意味です。投資ブログなら、米国株は素晴らしい! とか、配当金は素晴らしい! とかそういう内容です。
◯◯は良い、という記事ですね。
この◯◯は良いという記事は、書き手が◯◯を好きな場合、書いていて非常に気分が良いです。また好きであるがゆえに自然と力も入ります。
反対に◯◯は悪い、という記事は書くのにエネルギーが要ります。疲れますね。それはそうで、米国株を愛する者が米国株を否定するような文章を書くのは、非常に抵抗があるのです。
ポジティブなブログは稼げる
また、ブログの商業面で見ても、ポジティブな内容のブログであるほうがより稼げているという印象があります。
単純に考えて、悪口ばっかりデメリットばっかり書かれているブログよりも、良いところ優れたところメリットを強く押し出したブログのほうが好まれるのでしょう。
ブロガーが基本的にポジティブなことを書きたいという気持ちがあることと、商業面での有利さ。この二つにより、世の中のブログは概ね◯◯は良い、というメッセージを発するものが多いようにぼくには思えます。
と、ここまではブログの書き手の側のお話。
読み手が求めているのは、味方になってくれるブログ
反対にブログの読み手の側になると、面白いことに読み手の側もポジティブな内容を心のどこかで求めているような気がします。
これもやっぱり、せっかく検索してたどり着いた情報が、自分の好きな米国株をボロカスに言う内容だったら嫌じゃないですか。
どうせだったら、自分と同じ意見であってほしい、同じ想いであってほしい、自分の背中をあと一押ししてほしい、そんな感じじゃない?
読み手の側が求めてるのは、味方になってくれる文章なんですよね。
「異論」に出会えなくなった現代
また、情報のシステムも読み手の求めるものの元へとたどり着けるように、そもそもできています。
グーグルの検索の仕組みや複数のブログの情報をまとめるようなサイトなんかも、読み手に嫌悪感を持たれないよう細心の注意を払ったデザイン・システムになっています。
お陰で「どんでもないまでの異論」に読み手が接触することがなかなか起きません。
わざと道を外さない限り、読み手には読み手が読みたいと思われる情報が提供され、読み手の興味があるであろう広告がしっかりと表示されます。
まるでベルトコンベアーに乗せられているかのごとくです。
ノイズのない世界
書き手としてブログを書き、同時に読み手として他人のブログを読むとき、ぼくはどうにも奇妙な感覚を覚えます。
書き手は読み手が望むものをせっせと書き続けて、読み手は読んでいて心地よいものをせっせと読む。
これがもっともっと進んでいくと、なんというかノイズのまったく存在しない世界になってしまう。
それってなんか変じゃないか? とぼくは思うのです。
書き手は善意で書いているから、問題がわかりにくい
書き手たちが読み手をだまそうとか、そういうことじゃないんですよ。
いや、中にはそういう書き手もいるのかもしれませんが、少なくとも投資ブログの世界では、ぼくなんかよりも真面目に役に立つ記事を一生懸命書いている人がほとんどです。
ほぼ善意です。
こういう優れた投資法がある、自分はこういう失敗をしたからみんなは気を付けて、こうやるとお得だよ、こういう情報がある。等々……。
ほぼ善意でブロガーは書いている、はずです。
でもそれは、味噌ラーメンが食べたいなと思った人にすかさず味噌ラーメンを差し出すようなことなんですよね。もちろん善意で。
次にデザートが欲しいなと思ったら、丁度デザートが出てくる。それももちろん善意で。
それが当たり前になっちゃってる世界って、確かに心地いいけど、どうなの?
という、問い。上手く書けないけれど。
書き手と読み手の共犯関係の世界で投資の話は禁物
読み手が読みたいものを書き手が先回りして提供し、読み手をひたすら気持ちよくするこの世界は、書き手と読み手の共犯関係で成り立っている世界です。
その世界で特に投資の話題は危険です。
何故なら、投資の話というのは、大抵の場合メリットばかりではなく、同じだけのデメリットがあるからです。
リスクとリターンは比例します。
しかし、読み手が読みたいのは大抵リターンの話です。ナニナニの利回りが◯%とかね。
だから書き手は「驚きの利回り◯%!」とか書かざるをないのです。
書き手に選択肢はありません。
ですから、ブログに限らず、投資の情報を読むときには、大いに気を付けてください。
投資ってそんなに儲かるのかな? と思いながら情報を探すから、儲け話が出てくるのです。
米国株ってどうなの? と調べれば「米国株イイよ!」という情報しか目に入りません。
さながら情報戦。世界はそのようになっています。
これはとても危険で怖いことなのだという自覚をお持ちください。
読みたい情報だけが出てくる世界に違和感を感じろ!
自分でブログを書くようになってから、そんなことを考えるようになりました。
自分が読み手の場合でも、以前ならただ単に「役立つ話」として読み取っていた情報が、読み取り方が少し変わりました。
今自分が読んでこれは良いと思った情報は、そもそも自分のような人間が良いと思うであろうことを想定して書かれたものである。
であれば、これを読んで自分が良いと思うのは当然である。
だがしかし、その当然を当然と受け入れてしまっては、何かある種の「輪」の中に囚われてしまうのではないのだろうか。
しかも無自覚にだ。
それでいいのか?
このような問いをぼくはぼく自身になるべく課すようにしています。
そうでもしないと、何か大事なものを忘れてしまいそうで怖いからです。
世の中は情報であふれかえっています。そしてそのあふれかえった情報を上手く整理する仕組みができつつあります。
その上手く整理の「上手く」は一体誰のための上手くなのか。
広い意味で、米国株投資家全員が、いや世界中の投資家全員が、いやいや、インターネットを使う人々全員が何かとてつもなく大きな落とし穴にはまっていないことを祈りつつ、この文章を終えます。
理屈っぽい話でごめんね。これが素です。
オザワークスでした。
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